校祖・友國晴子、
その先見性と
やり抜く力
(意志力)

写真:校祖・友國晴子

校祖・友國晴子の意思の力

親和学園の校祖・友國晴子は江戸時代末期の生まれです。明治5年、日本の近代学校のさきがけとなる学制が公布されたとき、晴子は15歳でした。
晴子は幼少期の10歳ぐらいまで、近所の寺子屋で読み書きの手ほどきを受けていました。しかし、両親の死後、祖母に預けられ、寺子屋通いを禁止されます。
裁縫のみが許される環境に置かれた後も、晴子の向学心は衰えず、裁縫を習いながら、別室の男子への本の講義に耳を傾けて暗誦しました。
祖母の死後、晴子は堺の女学校に入学しますが、このとき24歳。当時、24歳の女性が学校に行くことは非常にまれで、「郷里の須磨村では、女の身そらで、他国へ修業に出るなどは、前代未聞の事柄とて、誰も彼も、驚異の目を争ったのである。24歳にもなった女盛りを、今から学校でもあるまいに、出る人も出る人なら、出す人も出す人だと悪く言う人」もあったと伝わっています。晴子は年下の女子生徒に混ざって学び、「緊張した心で、最も真面目に、謙遜な態度で、熱心に勉強を続け、校内のよい模範」となります。さらに堺の師範学校長の土屋弘から経史の教えを受け、早朝4時から時には女学校の監理から習字を学ぶなど、高い向上心で修学しました。
33歳になると東京の共立女子職業学校で勉学しますが、ここでも、各種の専門学校を訪れて授業を受けたり、経営者の話に耳を傾け学校経営を研究したりと、2刀流で学びます。いわゆる「辺縁思考」を養っていたのでしょう。
親和女学校が明治20年に開設されたとき、晴子は30歳でした。その後一時閉校となりますが、晴子が35歳のとき、親和女学校を再興します。生徒2名での開学でしたが、懇切丁寧な指導に尽くしたと言われます。
何でもやり抜く、強い意思の力を持っており、教え子の綿谷禮利によると「人には愚鈍と笑われても、愚直の誹を受けることがあっても、急がず、転ばず、粘り強く、堪える力を蓄えて、行く手を確と見定めて、コツコツと勉め励んでいくという心掛け。これが先生の持論であった」と言います。
学校経営で危機に直面することも一度や二度ではありませんでしたが、生徒の急増で施設が手狭になったときに頼母子講で凌いだり、神戸市や兵庫県から助成金を受けたりと、金策面でも経営手腕を発揮しました。

「社会のために」という考え方

晴子は、当時の女性観としては、先見の明がある考え方をしていました。
卒業生にあてた手紙には、「進んで世の中にも出て、内外ともに有用な人と仰がれ給わんことを祈り候」「世間の交際をもなるたけ広々となし、内外共に有用の人となられむことを願入る候」「今日の女子は、只うかうかと盲従しおるだけが、妻の務めには御座候なく間、折々は、社会にも出て人の為に尽くし、内外ともに有用の人となりて御働きなさらんことを祈り候」など、社会のために働く女性になることへの期待がつづられています。時を超えて、現在の女性活躍に通じる思いが伝わってきます。
晴子自身も、社会の動向に目を向け、苦境にある人に積極的に手を差し伸べました。近隣の貧しい人たちに裁縫を教えたほか、明治43年の東京での水害の時には、職員・生徒一同で義援金を送っています。大正12年の関東大震災のときは、晴子が陣頭指揮をとり、布団・毛布等を送っただけでなく、生徒たちと一緒に単衣を3,000枚も数日で仕上げて送りました。さらに生徒・職員一同・汲温会(同窓会)で、金1,100円を超える義援金を送金しました。このような社会貢献活動は、今日においても高い評価を得ています。
晴子は、その人柄も、考え方も、社会的な人物でした。

教育における先見性

晴子は女学校を高等女学校に昇格させ、時代の要請に応える教育課程の編成にも努力をしました。
そこにも時代の先を読む先見性があり、今日的な教育課程がみられます。高等女学校の主な科目を見ると、教育目的は、「身体教育」「道徳教育」「国民教育」「実科教育」の4つに分類されていました。
また、英語の学習には特に力を入れていました。①目の練習(reading)②耳の練習(listening) ③舌の練習(speaking) ④手の練習(writing)という分類は、現在の4技能と同じで、たいへん興味深いものです。さらに注目すべきは、晴子が開校当時から英語教育のためにイギリス人のネイティブを教師として採用していたことです。「界的言語なり 英字は普遍的文字なりとは世すでに定論なり」「英語を多少なりとも、知ると知らないとでは、他の学科を学習する上で、非常に大きな違いがある」という言葉に、晴子が捉えた英語の重要性を見ることができます。

「先生の希望の峰は、髙いみ空に仰がれていた。しかも、麓から一歩一歩、堅実な足取りで、倦(う)まず弛(たゆ)まず、昇り進むのが、先生の主義であった。」(綿谷禮利)
希望に向かって昇り続けるその歩みが、親和学園の礎となっています。

友國晴子の生涯と時代

晴子0歳
1858年(安政5年:安政の大獄)
晴子10歳
明治元年
晴子15歳
明治5年(学制の公布)
晴子24歳
明治14年(堺の女学校入学)
晴子30歳
明治20年(親和女学校開設・神戸市人口約10万人)
晴子33歳
明治24年(東京・共立女子職業学校他に学ぶ)
晴子35歳
明治25年(親和女学校再興・生徒2名で開学)
晴子37歳
明治27年(日清戦争)
晴子51歳
明治41年(親和高等女学校に昇格・校訓の改訂)
「誠実・堅忍不抜・忠恕温和」
初の海外旅行(24日間の一人旅:中国・韓国)
晴子54歳
明治44年(親和実科高等女学校設置)
晴子66歳
大正12年(親和高等技芸学校設置)
晴子68歳
大正14年死去